大阪高等裁判所 平成3年(う)530号 判決 1993年2月24日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役三年に処する。
原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。
この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。
押収してある野球用バット一本(当庁平成三年押第一五六号の符1)を没収する。
理由
本件控訴の趣意は、解任前の弁護人池内清一郎作成の控訴趣意書及び弁護人岩橋健、同岩本洋子共同作成の控訴趣意補充書各記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中被告人の責任能力に関する事実誤認の主張について
論旨は、要するに、原判決は、本件犯行当時、被告人は十分な責任能力を有していた、と認定したが、そのころ被告人は初期の老人性痴呆の状態にあり、心神耗弱の状況にあつたから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。
そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せ検討するに、原判決挙示の各証拠によれば、本件犯行前後の経緯として概ね以下の事実、すなわち、被告人は、昭和八年ころ被害者であるA(明治四二年九月一三日生)と婚姻し、二男三女をもうけたが、子供らがそれぞれ独立し、昭和四六年ころからは夫と二人暮らしを続けていたこと、しかしながら年とともに被告人は夫の若い頃の女遊びや飲酒癖にひどく悩まされた体験などが思い起こされて腹立たしく思えるようになり、ささいなきつかけで夫との口論が絶えない状態が続いたこと、これに対して夫は昔の行状について謝罪することもあつたが「今ごろ何を言う」などと反論したり、最近でも飲酒して朝帰りをするようなこともあつて被告人の不満は次第に高じ、昭和六三年三月頃からは、夫が性関係を迫つたり、被告人に暴力をふるうような場合には実力で反撃し、その結果殺害してもやむを得ないなどと漠然と考え、自分のベッドと壁の間に木製野球用バット二本、金槌、木製の杖、鍬などの凶器を隠し、廊下に目つぶし用のボウルに入れた砂を用意するなどした、しかしその後約九か月の間は、被告人は夫の態度が気に入らない時に突然夫におかゆをかけたり、夫の自転車の空気を抜くなどのいやがらせ行為を行つた事実はあつたものの、特に前記凶器等を用いるような実際行動をとろうとしたことは全くなかつたこと、ところが本件犯行当日の前夜すなわち昭和六三年一一月二四日の夜に被告人は夢を見、その内容は若い頃の夫が遊廓で遊び、その際女郎が「こんなに再々来て奥さんにいいんですか」と言つたのに対して夫が「あいつはあほやさかい」と言つたのを被告人が間近で聞いている、という奇妙なものであつたが、被告人は右夫の発言を聞いて、一気に憤激の念が高まり、そのため翌二五日午前二時ころに目をさましたこと、そしてこのうえは夫を殺害して積年の恨みを晴らす以外にはないと決意し、直ちにベッド脇に置いていた前記野球用木製バット一本(当庁平成三年押第一五六号の符1)を持つて夫の寝ている別室三畳間に赴き、就寝中の夫の頭部を三回位右バットで殴打し、同人を脳挫傷兼頭蓋骨骨折により死亡させて殺害し、それでも気が納まらず前記のボウル内の砂を夫の顔にかけるなどしたこと、しかしながら、右犯行の直前ころに、夫が被告人を挑発しあるいは夢の原因となるような言動に及び口論等があつた形跡は全くなかつたこと、の各事実が明らかである。
右のような事実経過の認定は専ら被告人の捜査官に対する供述及び原審公判廷における供述によらざるを得ないのではあるが、犯行直後の現場の状況や親族らの供述とも矛盾せず、また他に被告人の供述内容に反し、あるいは疑問を抱かせる証拠は一切ないから、右犯行経緯は動かし難いと考えられる。
そうすると、被告人の本件犯行は、夫に対してかねがね憎しみを抱き、機会があれば強い反撃を加えようと凶器となり得るものを身近に置くなどしていたものの、約九か月の長期間、そのような凶器を用いる行動に出ることなく、単なるいやがらせ行為を繰り返す程度で、漠然とした殺意を内心にとどめていた被告人が、本件犯行の直前夢のなかで、遊廓、女郎という数十年前の舞台で夫が被告人の面前で侮辱的発言をしたことで一気に怒りがこみ上げ、夢からさめるや直ちに殺害行為に着手した、というものであるから、夢の中の出来事が具体的殺意を形成する直接的きつかけとなつた、という意味で、犯行経過としていささか特異な点が認められる、といわなければならない。
この点に関して、原判決は、原審における大阪大学講師多田国利作成の精神鑑定書及び同人に対する証人尋問の結果をも参考とし、検査の結果痴呆その他の病的所見が明確にはないこと、夢がきつかけとなつてはいるが夢の内容は夫の過去の行状と重なつており、殺意の引金として不自然ではないこと、被告人は夢と現実とを区別した意識状況で犯行に及んでいること、被告人の前記のような犯行態様は被告人の長年の恨みを爆発させた行動として十分了解可能であること、被告人は犯行後自殺を考え、遺書の作成、預金の解約など統一のとれた身辺整理をしていること、本件犯行前後の行動について明確な記憶を有していること、の各事実を総合して、被告人には是非善悪の弁識能力及びこれに従つて行動する能力に欠けるところはない、と説示した。
しかしながら、右説明は、被告人の精神状態が心神喪失に至つていないことを合理的に説明していると認められるものの、前記多田鑑定人が原審において、高齢であり、寝起きには一時的意識水準の低下があり得るため、一過性の幻覚、妄想状態が生じた可能性を否定できないと供述していることや被告人が夢の中の夫の侮辱的発言を現実のものととらえ、夢がさめてからも憤激の念を募らせたうえ、殺害行為終了後も砂をかけるなど極めて強い攻撃性を残していた点で、夢と現実との区別が明確にはなされていなかつたと考えられることを考慮すると、被告人が通常の判断力、抑制力を有していたか否かについてはなお解明は十分とはいえない、と考えられる。
なぜなら、原判決も認めるように、前記の凶器等を準備したことは、「ごく漠然と」した殺意の徴表にすぎないのであつて、約九か月の間具体的行動に出なかつた被告人が突然、夢をきつかけとして本件犯行に及んだことの説明として、原判決が挙示する、夫に対する長年の恨みの存在、恨みの根拠となる夫の行状の存在が十分な根拠となるとは考えられないし、また数十年前の若い頃の夫が女郎と被告人の面前で侮辱したという架空の事実が殺意の引き金になつた点が殺意形成の経緯として不自然でないとは必ずしも断定できないといわなければならず、さらに仮に一過性の精神障害が存在したとするならば、犯行後の行動の合理性が被告人の行為時の正常さを説明しているともいえない、と考えられるからである。
そこで当裁判所においては、さらに老人医療の専門家である埼玉県北所沢病院長作田明に再鑑定を依頼したところ、同鑑定人は、被告人の本件犯行当時の精神状態は、脳動脈硬化性精神障害で感情障害と浮動性の妄想様体験が認められる、その結果他者への攻撃性に対する抑制力に一定の影響を与えた可能性は否定できないが、是非善悪の判断とその判断に従つて自己の行動を制御する能力に著しい障害があつたとは考えられない、と診断した。
しかしながら、右鑑定書を子細に検討すると、被告人の抑制力に影響を及ぼす可能性のある精神障害の存在を認めた部分と自己の行動を制御する能力に著しい障害がなかつたとの結論部分との結びつきは必ずしも明確とはいえない。
すなわち、右鑑定書中の被告人の前記精神障害の評価部分における「分裂病の場合には、病的体験を受けとめる側の主体の変化がより深刻かつ根源的であるために、このような選択、抑制、工夫が期待し得ないと考えられるが、被告人の場合、社会生活、家庭生活の上からも人格の変化はほとんど認められないのである。ただ一つ問題となる点は、不穏、衝動性、爆発性であつて、被告人に犯行前の数カ月間この様な傾向が促進されていることは否めない。そしてこの衝動性、爆発性が自我の統制をこえるほど強く被告人の人格がこの症状に支配されたのではないかとの疑いも生ずる。しかし被告人の場合、その犯行は心理学的に十分に了解可能な行為であつて無目的、無差別的、無動機的な運動暴発ではない。それゆえ、この衝動性が全人格を支配するほど強いとも、あるいは人格による衝動性の抑制が著しく困難なほど強いとも考えられないことは明かである」(六〇頁ないし六一頁)あるいは「こうした老人特有の性格変化と脳動脈硬化症の一症状としての感情障害が他者への攻撃性に対する抑制力の低下に一定の影響を与えた可能性は否定できないものの、それらが被告人の全人格を支配して犯行に至らしめたと考えることはできないのである。」(六二頁)との記載によれば、被告人の精神状態が脳動脈硬化性精神障害の結果通常のものではないことを前提としながら、精神分裂病あるいは無動機的犯行との比較を通じて、被告人の精神状態がそのようなものではなかつたと判断している、と考えられる。
また当審において、右鑑定人に右記載内容の意味について質問したところ、被告人の本件犯行は妄想様体験に動機づけられてはいるが分裂病のように支配はされていないし抑制力が完全にはなくなつていない、社会生活に異常がないから、大きな人格の変化はない、従つて著しい障害はないと判断した、と答えたのであつて、やはり同鑑定人が被告人の精神状態が心神喪失の状況には至つていなかつたことを主として強調し、著しい障害でない点の根拠としては、被告人の日常生活に触れているにすぎない、と解さざるを得ないのである。
そうすると、右鑑定内容に加え、前述のように原審における鑑定人も老齢による抑制力の低下が攻撃性、衝動性も先鋭化させ、犯行の動機に多少とも関与した可能性を否定せず、しかもその程度については「なんともいえない」として明言を避けている点を併せ考慮すると、被告人について、主として高齢を原因とする脳動脈硬化性精神障害による抑制力の低下の存在は動かしがたいうえ、夢という一過性の妄想様体験と寝覚めという一時的意識低下状態が寄与した場合の抑制力の低下の程度について医学上の断定は困難とされている、とみるほかはない。
翻つて、被告人の本件犯行が、それまでのいやがらせ行為とは質的に異なる飛躍があるといわざるを得ないこと、夢の直後の犯行であつて、夢からさめたことによつて当然おきるはずの、現実に発生した事態ではないとの認識、自覚から発生すべき犯行への逡巡が全く認められず、本件犯行と夢との関連は切り離せないことを考慮すると、本件犯行の動機はなお経験則に照らして特異性が認められるといわざるを得ず、そうすると脳動脈硬化性精神障害を基盤とする、妄想様体験、寝覚め時の意識低下の重複的影響による被告人の抑制力低下が著しくないと断定するには、少なくとも合理的疑問が残る、といわざるを得ない。論旨は理由がある。
従つて、原判決はその余の論旨(量刑不当)について判断するまでもなく破棄を免れない。
よつて刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により更に判決することとし、原判決の罪となるべき事実の末尾に「なお、右犯行当時被告人は、脳動脈硬化性精神障害等により心神耗弱の状態にあつたものである。」と付加するほか原判決認定の事実を引用し、証拠の標目として、鑑定人作田明作成の鑑定書、証人作田明の当審における供述を加え、これに法令を適用するに、被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右行為は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、本件犯行は罪質、態様においてきわめて重大かつ悪質ではあるが、前述のように、夢に触発された突発的なもので、いわゆる計画的犯行とまではいえないこと、被告人には高齢(現在八一歳)による精神障害が認められ、現在ではさらにこれが進行している状態であること、夫の遊興に悩まされ続けた長い生活歴には同情すべき余地があり、利欲的動機は窺えないこと、これまでに前科前歴が全くなく、再犯のおそれも考えられないこと、被告人の子供らが今後の監督を誓つていること等の諸情状を考慮し、特に刑法二五条一項、二五条の二第一項前段を適用して、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、右猶予の期間中被告人を保護観察に付し、なお押収してある野球用バット一本(当庁平成三年押第一五六号の符1)は、判示犯行の用に供したもので被告人以外の者に属しないから同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 村上保之助 裁判官 米田俊昭 裁判官 安原 浩)